2026年4月以降、化学物質の自律的管理制度が本格的に動き出します。SDS(安全データシート)通知義務の拡大に加え、濃度基準値が設定された物質を取り扱う屋内作業場では個人ばく露測定による確認が求められるようになります。
建設業では塗装・防水・溶接など多くの工程で化学物質を使用します。しかし、作業場所が日々変わる建設現場では、従来の定点測定(A・B測定)だけでは作業者の実際のばく露量を把握しきれません。個人ばく露測定は、作業者の呼吸域で直接サンプリングする手法であり、建設業の実態に合った管理手法です。
本記事では、安全管理者が施行までに完了すべき準備事項を手順形式で整理します。
個人ばく露測定義務化の背景と施行スケジュール
従来の化学物質管理は、特定化学物質障害予防規則や有機溶剤中毒予防規則といった個別規則で物質ごとに規制する方式でした。しかし、規制対象外の物質による健康障害が後を絶たず、厚生労働省は「自律的な化学物質管理」への転換を決定しました。
この転換の柱の一つが、濃度基準値の設定と個人ばく露測定の義務化です。事業者は、リスクアセスメント対象物の濃度基準値を超えないよう管理し、その確認手段として個人ばく露測定を実施する責任を負います。
178物質
濃度基準値が設定された物質数(令和7年10月時点)
出典:厚生労働省「化学物質の自律的管理に関する省令改正」、日本作業環境測定協会
施行スケジュールの全体像
| 施行時期 |
主な内容 |
| 2024年4月 |
濃度基準値の遵守義務・リスクアセスメント結果に基づくばく露低減措置の義務化 |
| 2026年4月 |
SDS通知義務の対象物質拡大・成分含有量の記載強化 |
| 2026年10月 |
個人ばく露測定を行う者の要件明確化・測定精度の担保に関する省令施行 |
2026年4月から準備を開始すべき理由
個人ばく露測定の実施体制を整えるには、対象物質の洗い出し、測定機関の選定、測定計画の策定に数か月を要します。SDS通知義務が拡大する2026年4月の段階で準備に着手しなければ、10月の本格施行に間に合いません。
建設業で対象となる物質と作業
建設現場で使用頻度が高い化学物質のうち、濃度基準値が設定されている主な物質と典型的な作業を整理します。
| 物質名 |
典型的な使用場面 |
健康リスク |
| トルエン |
塗装作業・接着剤の使用 |
中枢神経障害・肝機能障害 |
| キシレン |
塗装・防水工事 |
頭痛・めまい・皮膚障害 |
| エチルベンゼン |
塗料の溶剤・防水材 |
発がん性のおそれ |
| スチレン |
FRP防水・ライニング工事 |
呼吸器障害・神経障害 |
| 溶接ヒューム |
鉄骨溶接・配管溶接 |
じん肺・肺がん |
| ホルムアルデヒド |
内装工事・接着剤の使用 |
発がん性(鼻咽頭がん) |
出典:建設業労働災害防止協会(建災防)「建設業における化学物質管理」
建設業特有の課題
塗装や防水作業では、作業者が移動しながら作業を行うため、発散源の位置が一定しません。定点測定ではばく露実態を正確に把握できず、作業者の呼吸域で測る個人ばく露測定が不可欠です。
測定方法の基本:従来法との違い
化学物質のばく露管理に用いる測定方法は、大きく分けて3種類あります。それぞれの特徴を理解したうえで、自社の作業実態に合った方法を選択する必要があります。
| 測定方法 |
測定対象 |
測定時間 |
特徴 |
| A・B測定(従来法) |
作業場の空気環境 |
10分以上 |
定点にサンプラーを設置。場の濃度を評価する |
| C・D測定(個人サンプリング法) |
作業場の空気環境 |
C:2時間以上、D:15分 |
作業者に装着するが、場の評価が目的 |
| 個人ばく露測定 |
作業者個人のばく露量 |
作業時間全体(8時間TWA) |
作業者の呼吸域で測定。個人のリスクを評価する |
労働安全衛生規則 第577条の2(要旨)
事業者は、リスクアセスメント対象物を製造し、又は取り扱う業務に従事する労働者のばく露の程度が、当該物質の濃度基準値以下となるようにしなければならない。ばく露の程度の把握は、個人ばく露測定その他の適切な方法により行う。
C・D測定は作業環境測定の一手法であり、個人ばく露測定とは目的が異なります。C・D測定が「作業場全体の管理状態の評価」を目的とするのに対し、個人ばく露測定は「個々の作業者が濃度基準値を超えていないかの確認」を目的とします。
個人ばく露測定 準備チェックリスト
2026年4月施行に向けた準備事項を一覧化。対象物質の特定から外部委託先選定まで漏れなく確認できます。
チェックリストを入手する
施行までの準備5ステップ
安全管理者が施行日までに完了すべき準備を5つの手順に分解します。各ステップは前工程の完了が前提となるため、順番どおりに進めてください。
-
1
対象物質の棚卸しとSDS確認
自社が使用する全化学物質のSDSを収集し、濃度基準値が設定されている物質を特定する。建設業ではとくに塗料・シンナー・接着剤・防水材に含まれる有機溶剤を重点的に洗い出す。SDSの入手先はメーカーまたは資材販売業者である。
-
2
ばく露リスクの評価と測定対象作業の選定
対象物質を使用する作業ごとに、ばく露の可能性と程度を推定する。CREATE-SIMPLEなどのツールを用いた推定が推奨されている。推定の結果、濃度基準値を超えるおそれがある作業を測定対象として選定する。
-
3
測定方法の決定と測定計画の策定
個人ばく露測定の具体的手法を決定する。測定する物質・作業場所・対象作業者・測定時間・使用する採取機器・分析方法を文書化する。8時間TWA(時間加重平均値)を算出するための測定計画を作成する。
-
4
測定実施体制の構築(自社または外部委託)
測定を自社で実施するか、外部の作業環境測定機関に委託するかを決定する。自社で実施する場合は、作業環境測定士の資格要件を満たす人材を確保する。外部委託の場合は、個人ばく露測定に対応可能な機関を選定する。
-
5
試行測定の実施と結果に基づく改善
本格施行前に試行測定を実施し、測定手順の妥当性を確認する。結果が濃度基準値を超えた場合は、換気設備の改善・保護具の変更・作業手順の見直しなどのばく露低減措置を講じる。
推定で判断できない場合に測定が必要
厚生労働省の指針では、まずCREATE-SIMPLEなどによる推定を行い、それでも濃度基準値以下であることを確認できない場合に、実測(個人ばく露測定)を行うとされています。全作業で測定が必要なわけではありません。
記録の保存と報告義務
個人ばく露測定を実施した場合、以下の事項を記録し保存する義務があります。
- 測定日時・測定場所・測定対象作業の内容
- 測定対象者の氏名と作業内容
- 使用した試料採取機器と分析方法
- 測定結果(8時間TWAおよび短時間ばく露値)
- 結果に基づき講じた措置の内容
| 記録項目 |
保存期間 |
備考 |
| 個人ばく露測定の結果 |
3年間 |
特別管理物質は30年間 |
| リスクアセスメントの結果 |
3年間 |
労働安全衛生規則第34条の2の8 |
| ばく露低減措置の記録 |
3年間 |
措置の実施日・内容・効果の確認結果 |
特別管理物質は30年保存が必要
発がん性のおそれがある物質(エチルベンゼン、ホルムアルデヒドなど)は特別管理物質に該当します。この場合、測定結果の保存期間は30年に延長されます。建設業で頻繁に使用する塗料には特別管理物質が含まれることがあるため、必ずSDSで確認してください。
外部委託の手順と選定基準
建設業の多くの事業者は、自社に作業環境測定士を抱えていません。個人ばく露測定を外部機関に委託する場合の手順と、委託先の選定基準を整理します。
-
1
委託先候補のリストアップ
都道府県労働局に登録された作業環境測定機関のうち、個人ばく露測定に対応可能な機関を選定する。中央労働災害防止協会(中災防)や日本作業環境測定協会のWebサイトで対応機関を検索できる。
-
2
見積り取得と対応範囲の確認
測定対象物質・作業場所数・測定回数を伝え、見積りを取得する。報告書の作成・結果の解説・改善提案まで含まれるか確認する。
-
3
契約締結と測定スケジュールの調整
建設現場は工程変更が多いため、測定日の変更に柔軟に対応できる機関を選ぶことが実務上重要である。契約時に変更対応のルールを明記する。
委託先選定の5つの基準
- 登録区分:個人ばく露測定の実績がある登録測定機関であること
- 対応物質:自社が使用する物質の分析に対応していること
- 報告速度:測定から結果報告まで2週間以内であること
- 改善提案:結果に基づくばく露低減措置の助言が受けられること
- 実績:建設業の現場での測定経験があること
準備チェックリスト
施行までに完了すべき項目を一覧にまとめました。社内での進捗管理にご活用ください。
- 自社で使用する全化学物質のSDSを最新版に更新した
- 濃度基準値が設定されている対象物質を特定した
- 対象物質を使用する作業と作業者をリスト化した
- CREATE-SIMPLEなどでばく露濃度の推定を実施した
- 推定で確認できない作業の測定計画を策定した
- 測定実施体制(自社 or 外部委託)を決定した
- 外部委託の場合、委託先を選定し契約を締結した
- 試行測定を実施し、手順の妥当性を確認した
- 測定結果の記録様式と保存方法を整備した
- 濃度基準値超過時のばく露低減措置の手順を文書化した
- 保護具の選定・管理状況を確認した
- 関係する作業者に制度変更の教育を実施した
個人ばく露測定 準備チェックリスト
2026年4月施行に向けた準備事項を一覧化。対象物質の特定から外部委託先選定まで漏れなく確認できます。
チェックリストを入手する
個人ばく露測定の準備と化学物質管理の実務を支援するツールを紹介します。
ご注意
本記事は一般的な参考情報であり、法的助言を提供するものではありません。法令の解釈・適用や個別事案への対応は、社会保険労務士・弁護士等の専門家、または所轄の労働基準監督署等の行政機関にご確認ください。記載内容は執筆時点の情報に基づき、最新の法令・通達と異なる場合があります。
まとめ
本記事の要点を整理します。
- 2026年4月のSDS通知義務拡大と同年10月の個人ばく露測定に関する省令施行に備え、建設業の安全管理者は今から準備を開始すべきである。
- 建設業では塗装・防水・溶接など多くの工程が対象となる。トルエン・キシレン・エチルベンゼン・溶接ヒュームなど、濃度基準値が設定された物質を使用する作業を漏れなく特定する。
- 個人ばく露測定は作業者の呼吸域で直接測定する手法であり、作業場所が移動する建設業の実態に適した管理方法である。
- 準備は5ステップで進める。対象物質の棚卸し、リスク評価、測定計画の策定、実施体制の構築、試行測定と改善の順番を守る。
- 記録の保存期間は原則3年、特別管理物質は30年。保存体制を事前に整備する。
- 自社に測定士がいない場合は外部委託が現実的な選択肢。建設業の現場経験がある測定機関を選定する。
化学物質の自律的管理は、規制を守るだけの対応では不十分です。自社の作業実態を正確に把握し、作業者一人ひとりのばく露量を管理する体制を構築することが、健康障害の防止と法令遵守の両立につながります。
参考法令・資料
- 労働安全衛生規則 第577条の2(ばく露の程度の低減)
- 厚生労働省「化学物質による健康障害防止のための濃度の基準の適用等に関する技術上の指針」
- 日本産業衛生学会 産業衛生技術部会「化学物質の個人ばく露測定のガイドライン」
- 建設業労働災害防止協会(建災防)「建設業における化学物質管理」
- 日本作業環境測定協会「化学物質の自律的管理に関する情報」
- 中央労働災害防止協会(中災防)「個人ばく露測定サービス」